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それはそれとして

駄文の連なり

他人の自意識の渦に溺れて死ぬ

何でもない

 こんなブログを書いている時点でわたしもわたしとて自意識のかたまりだと言えよう。
 とはいえ大人相応に分別もついてというかこだわりがなくなっているのは確かで。

 そんな中twitterでゲームクラスタ以外の方達を珍しくフォローしてみたらあーれびっくり自分が卒業してきたはずの自意識の渦がそこにはまだあって、わたしは溺れて、死んだ。
 その上、花とアリスを視聴して、二度死んだ。

 そして生き返って思うのだけれど、自分がいわゆる”大人になら”ずにそうした濃縮還元された自意識をまとったまま生きていたらどうなっていただろう。
 ちょっとわからない。
 でも、少し羨ましいとすら思ってしまう自分がいたんだ。

シン・ゴジラがいまいちピンとこなかったんだ

 なるほど、なるほど、なるほど、まあそうだよね、なるほど。
 それで終わってしまったんだ。
 長谷川博己かっこいいし自衛隊かっこよかったけど。

 でも周りもみんな絶賛してるからわたしがおかしいんじゃないかと思うんだ。
 のっかれなくてかなしい。
 絶賛できなくてかなしい。
 同じ意見の人がいなくてかなしい。

 かなしい。

誰かがハッとするような言葉を選びたかった1日だった

何でもない

 人と別れるときの原風景みたいなものがある。
 原風景というと普通は子どもの頃の情景だったりするわけだけれど、わたしの場合それはごく最近のもので、3年半前に入院していたときの別れだ。

 そのとき上司が見舞いに来てくれていて、夕ご飯の時間だったのだけれども談話室のようなところでずっとお話をして、最後にエレベーターホールで手を振って別れた。上司は東京への転勤が決まっていて、わたしは退院のめどが立っていなかった。ここで別れたらしばらく会えないなと思って、苦しい思いで送ったのを覚えている。わたしはその上司が大好きだったのだ。
 それでその別れ方が、それまでのあらゆる人とのさようならを上書きして、わたしの人と別れるときの原風景みたいなものになった。

 でもそれってずいぶん綺麗な別れ方だったなと思う。

 人恋しくてその上司のことを今も思い出すわけだけれど、何しろ仕事をぶんなげて療養に入ってしまったので今更合せる顔がなくて連絡もなかなかとれない。
 思うほど人は気にしてないよと言ってくれる人もいるしその通りだと思うけれど、なかなか、ね。

 先週から追加になった薬の所為か、一日中眠さがあり、頭もぼーっとして、読書もまともにできない。意味のある文章なんて書けようがない。
 それでもtwitterなんかを覗いていると劣等感と焦燥感のかたまりが体を包み込んで、まとまらない文章でも書かずにはおれなくなるから困ったものだ。

大人になれば

 先日フォロワさんとサシオフした。
 昨日、リアル知人ではあるけどネットでの方が付き合いのある知人とリアル脱出ゲームに行った。

 同窓会には行けないのに、友達には会いに行けないのに、あまり面識の無い人には簡単に会える。不思議といえば不思議だけど、そりゃそうだろという気もしないでもない。
 まあだからなんだという話ではありますが。

 ゲームをする気もあまりせず、Kindle Umlimitedで漫画本を漁り、志村貴子を初めて読んだけれどなかなか良く、それ以外はあまりピンとくるものがないなあと思っている。小説も読めれば良いのだけれど、どうにも頭が回らず文章を読む気が起こらない。そう頭が回らない。困った。

 学生時代には、頭が回らないくらいならつらいままでいいと思っていたけれど、大人になったらそれは無理だった。つらいままでもいい体力と気力が無い。
 つらいままで生きていけた学生時代が懐かしい。存在するだけで苦しかった。そんな苦しさの中ではもう生きていけない。大人になってしまった。大人になったんだよ。

うまくいかなかった方の人生に思いをはせてしまう

漫画

 酷暑である。家から一歩も出る気がしない。ひとたび外出したらアイスを買わないでいられる自信が無い。更に言えばビールの誘惑が待っている。しかしソフトドリンカーのわたしはビールが飲めない。そこでコーラやサイダーを飲むわけだがビールの代わりにはならない。だからビールを飲みたくならないように自宅から出ない。それがわたしだ。

 3月のライオンの11巻を読み返していた。
 ネタバレを含みます。

 この巻では主人公である零は、お世話になっているあかり、ひな、もも3姉妹の父親と対峙することになる。この父親はかつて3姉妹とその母を自分勝手に捨て、別の女性と家庭を築いてきた。その他にも仕事などの面でも好き放題にやってきた描写が10巻にある。最低最悪な男として描かれている。自分の好きな人たちにだけ都合の良いことを言って、自分を守ることだけを考える。ときに人の弱みに付け込み、話を作り込み、周りを巻き込んでいく。そして都合が悪くなったらすべてを捨てて逃げる。逃げる。逃げる。まるでわたしみたいじゃないか。心が抉られていく。
 この父親は3姉妹から見限られてしまうことになる。「お前が先に捨てたんだろ」というのが前提としてあるのだけれど、それでも誰かが誰かに現在進行形で捨てられる描写を読むというのはつらい。どうしても捨てられた側に立ってしまう。自業自得であっても、つらいものはつらい。
 見限ったひなとあかりも、ものすごくつらかったと思う。かつて愛していた人を、「要らない」と切り捨てる覚悟は、どんなものだったろうと思う。でもひなとあかりには味方がいる。これからも互いに思いやりあって温かい家族としてやっていけるだろう。しかし父親の一家は違う。後妻も娘もおそらく(短期的には)決して幸せな結末を迎えることができない。父親だけでなくその子どももどんなにつらいだろうと思うとやりきれない。
 もちろんひなとあかり、ももの3姉妹とその祖父、伯母、主人公たち周りの人たちが温かい関係を築き、光溢れる側として存在するためには、彼女たちなりの相当の努力があってのことだと分かっている。「普通の幸せな関係」は双方の努力なくしては成り立たないのだ。父親はその努力をこれまでしてこなかった。努力している人にただ乗りして生きてきた。今後も吸い尽くそうとしてきた。だから見限られた。それは分かっている。
 でもつらさだけにフォーカスすれば、その今後についての絶望ははかりしれない。もしかしたら口八丁手八丁でまたうまいこと誰かを言いくるめて後妻たち「今の面倒ごと」からも逃げることに成功し、また新しい人生を送っていくかもしれない。でもそんなのは続かない。嫌なものから目を背けて逃げ続けてる限り、おそらくいずれひとりぼっちのつらい未来が待っているだろう。そして何度でも言うが、自業自得だとしても、つらいものはつらいのだ。


 描かれなかった人生がどんなものだったかが気になってしまう。うまくいかなかった方の人生に思いをはせてしまう。これは自分が今思い通りにいかない人生を送っているからなのかは分からない。
 でもとにかく、3月のライオン11巻は「解決編」ではあるけれども、読み返しても決してスカッとする話ではなく、たぶん必要以上に辛さを感じてしまう内容だった。

近未来に行ってきた

何でもない

 元町中華街へ行った。久々のことだった。おそらく2年ぶりくらいではないか。中華街にはそれなりに行くが、いつも関内方面から赴くので元町中華街駅を利用するのは本当に久しぶりのことだった。相変わらず近未来感のある駅だなあと思うわけだけれども、一番最初に「近未来感のある駅だなあ」と思ったのはもう10年以上も前の話で、その頃の近未来にわたしはすでに立っているのであって、つまりなんだ、「近未来感」ってなんだろうねという話。華美な装飾がなく物質的な感じがするというか。であればそう言えばよいのになぜか「近未来」という言葉を使い、自分勝手に夢を感じる。そう、近未来には夢がある。便利になる、楽になる、明るくなる、よりよくなる。近未来に悪いイメージは似合わない。

 そういうわけで近未来に行ってきた。いろいろな意味で近未来だった。近未来をわたしは礼賛しようと思う。「近未来」、つまり今現実のこの文明を、科学技術を讃えるということである。

 「消費」ということについて少し考えた。でもやっぱり、人はむやみに誰かに消費されたりするべきじゃないんだ。たとえそこに望んでた称賛や喝采に見える何かがあったとしてもだ。
 とはいえインターネッツのこちら側で(誰もが当人にとってはこちら側になるわけだけれど)さまざまな人たちや出来事について高みの見物を決め込んでしたり顔で「消費されるべきじゃない」なんて言っているわたしは、少なからずそれらの人たちや出来事を消費しているわけで、完全に潔白にはなれない。だからこそ自覚的になるべきだし、逆に自分が消費される立場になってしまうことから自分自身を守るべきなんじゃないかと思う。

 いろいろなことが起こる。と、ぼくはにんじんにそう言った*1
 いろいろなことが起こる。と始めたくなる気持ちはときどき分かる。いろいろなことが起こるからだ。

 そうやっていろいろなことが起こっていく中で、自分を保つことというのは、言うほどきっと簡単じゃないだろう。「いろいろ」の中にはきっと意識的または無意識に消費したりされたりすることも含まれるわけだけれど、そういう渦中にあって自分自身できちんと在り続けるには、そこそこのタフネスと、それなりの環境と、運がいる。わたしたちが今自分自身を見失わずにキーボードを叩けることは、自分だけの力じゃないし、とても運がよいことなのだ。それを忘れては、いけないぜベイビー。

ドーナツを食べて理性を取り戻した夜の文章

ゲーム 散文

 存在するだけで尊いものがある。たとえば妖怪ウォッチ3におけるボー坊がその一つだ。
 
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 ボー坊はひょうたんいけ公園に昼夜問わずに稀に出現する妖怪で、いたれりつくせり2体を引き連れている。Cランク妖怪であるのにただ倒すだけで20,000を超える経験値をもらえる。お供に連れているいたれりつくせりのレベルが通常のいたれりつくせりよりも高く設定されており、また縦や横の陣形などを確実に利用した攻防をしてくるので、一回の戦闘に5分以上かかる。その間にボー坊が必殺技でとりついてくるので、おはらいメソッド(超ラッキーがくるまでおはらいキャンセルしまくる)を利用しさらに経験値を稼ぐことができる。また、たまに流れてくる経験値玉をゲットできればそのさらに倍の経験値を得ることができる。これによってこちら側のレベルや戦闘時間によっては一度に10万どころか20万の経験値を稼げる計算になる。

 と、ゲームをやっていない人に説明しても仕方がない。
 要は、存在するだけで尊いものがあると言いたかっただけなのだ。

 ひがんでいるのではなく、そういう存在があるというのは救いだよなと思っている。

 わたしは常日頃から誰かの存在は「そうであったかもしれない可能性の自分」と思っていて、つまり存在するだけで尊いとされる、そんな未来だって可能性としてはわたしにもあったのだということになる。たぶん。だから存在するだけで尊いとされる何かや誰かがあったりいたりするということは、自分がそうであることと同じ意味を持つのだ。すこし。それだけで今のこの現実の人生の救いになる。
 そうじゃないかな。